
夜の道路は、雨上がりの匂いをまだ少しだけ残していた。街灯に照らされたアスファルトが、鈍く光っている。
「……ん?」
鷹宮玲治(たかみや れいじ)は、帰り道の途中で足を止めた。片手に下げたコンビニ袋の中で、ペットボトルが小さく鳴る。
街路樹の根元に、何かが落ちていた。傘――ではない。それは人の腕だった。
血は出ていない。切断面もない。ただ「腕」という形だけが、そこにあった。少し離れた場所に、指先が二本。まるで、人体の一部という“情報”だけが、間違った座標に配置されたかのようだった。
「……まいったなぁ」
鷹宮は小さく息を吐き、腕時計を見る。
「今夜は早く帰らないと、奥さんに怒られるんだけど」
冗談めいた独り言の直後、周囲の空気がひとかたまりで“ずれた”。耳鳴りでも、風でもない。世界が一瞬、別の位置に噛み合ったような感覚。鷹宮はコンビニ袋を歩道の端に置き、上着のボタンを外した。
「……定時に帰れないやつかなぁ」
街路樹の影から、ゆっくりと人の形が姿を現す。顔はある。だが、何かが決定的におかしい。口は動くが、呼吸の気配がない。
「――確認する、おまえは、漂流者を、知っているか」
異形が、はっきりとした人間の言葉で言った。鷹宮は、少しだけ眉を上げる。
「へえ、喋れるんだ。いまが勤務時間なら、おしゃべりにも付き合ってあげたいところなんだけど」
異形は答えない。ただ、その視線だけが、鷹宮をなぞる。
そのとき、今しがたずれた空気が一瞬のブレを生じて戻る感覚とともに、背後から平坦な声が響いた。
「鷹宮隊長。LX3-22-ST、現地到着。戦域の安定化でサポート開始します」
鷹宮の後ろには“天使”が立っていた。

「お、早いね」
鷹宮は前を向いたまま、軽く手だけを挙げる。
「この辺ってば、そんなに場が乱れてた?」
「肯定します。本来であれば、保全局からの要請を待つべき事象です」
「でも、たまたま近くにいた。そういうことね」
「是」
鷹宮は苦笑した。
「せっかく会ったのに、なんだか味気ないなぁ。名前くらいあるんでしょ? 誰ちゃんなの?」
一拍の沈黙。
「個体名は存在しますが、型式以外の告知は不要と判断しました」
「つれないねぇ」
肩をすくめ、鷹宮は異形を凝視する。
異形が、わずかに動く。人の形を保ったまま、首と胴の位置が下手なモンタージュ写真のように噛み合っていない。
天使の声が淡々と告げる。
「様式を観測。滓魔(さいま)とは異なります」
「でしょうね」
鷹宮は一歩、前に出る。
「最近、無駄口の多い悪い子が増えたよね」
異形の姿が、次の瞬間、瞬時に移動した。
――否。移動したのではない。“位置を選び直した”のだ。だが、そこにはすでに鷹宮がいた。
「予測済み」
短く言って、刃が閃く。いつの間に抜いたのか、鷹宮の手には、鈍く光る刀が握られていた。
異形は身を捻り、再び位置を変える。だが、逃げ込んだ先にも――すでに鷹宮が立っていた。
「お疲れさま」
瞬間の閃光。切り裂かれたのは異形の肉体ではない、存在そのものだった。異形は声にならない音を発し、形を維持できず、ほどけるように消えていった。
「サポート、終了します」
背後で、天使の事務的な声が響く。鷹宮は刃を収め、コンビニ袋を拾い上げながら軽く息を吐いた。
「もっとこう……。いや、なんでもない、キミもお疲れさま。冷えてきたし、さっさと帰ろうか」
少し離れたビルの屋上で、黒いコートの男が、その一部始終を見下ろしていた。表情は目深に被った帽子に隠されている。
しかし異形が消滅した瞬間、男の姿も、最初から存在しなかったかのように薄れて闇に消えた。





