2026-01-02

『天使の偽り -The Drifter Awakens-』プロローグ

夜の道路は、雨上がりの匂いをまだ少しだけ残していた。街灯に照らされたアスファルトが、鈍く光っている。

「……ん?」

鷹宮玲治(たかみや れいじ)は、帰り道の途中で足を止めた。片手に下げたコンビニ袋の中で、ペットボトルが小さく鳴る。

街路樹の根元に、何かが落ちていた。傘――ではない。それは人の腕だった。

血は出ていない。切断面もない。ただ「腕」という形だけが、そこにあった。少し離れた場所に、指先が二本。まるで、人体の一部という“情報”だけが、間違った座標に配置されたかのようだった。

「……まいったなぁ」

鷹宮は小さく息を吐き、腕時計を見る。

「今夜は早く帰らないと、奥さんに怒られるんだけど」

冗談めいた独り言の直後、周囲の空気がひとかたまりで“ずれた”。耳鳴りでも、風でもない。世界が一瞬、別の位置に噛み合ったような感覚。鷹宮はコンビニ袋を歩道の端に置き、上着のボタンを外した。

「……定時に帰れないやつかなぁ」

街路樹の影から、ゆっくりと人の形が姿を現す。顔はある。だが、何かが決定的におかしい。口は動くが、呼吸の気配がない。

「――確認する、おまえは、漂流者を、知っているか」

異形が、はっきりとした人間の言葉で言った。鷹宮は、少しだけ眉を上げる。

「へえ、喋れるんだ。いまが勤務時間なら、おしゃべりにも付き合ってあげたいところなんだけど」

異形は答えない。ただ、その視線だけが、鷹宮をなぞる。

そのとき、今しがたずれた空気が一瞬のブレを生じて戻る感覚とともに、背後から平坦な声が響いた。

「鷹宮隊長。LX3-22-ST、現地到着。戦域の安定化でサポート開始します」

鷹宮の後ろには“天使”が立っていた。

「お、早いね」

鷹宮は前を向いたまま、軽く手だけを挙げる。

「この辺ってば、そんなに場が乱れてた?」

「肯定します。本来であれば、保全局からの要請を待つべき事象です」

「でも、たまたま近くにいた。そういうことね」

「是」

鷹宮は苦笑した。

「せっかく会ったのに、なんだか味気ないなぁ。名前くらいあるんでしょ? 誰ちゃんなの?」

一拍の沈黙。

「個体名は存在しますが、型式以外の告知は不要と判断しました」

「つれないねぇ」

肩をすくめ、鷹宮は異形を凝視する。

異形が、わずかに動く。人の形を保ったまま、首と胴の位置が下手なモンタージュ写真のように噛み合っていない。

天使の声が淡々と告げる。

「様式を観測。滓魔(さいま)とは異なります」

「でしょうね」

鷹宮は一歩、前に出る。

「最近、無駄口の多い悪い子が増えたよね」

異形の姿が、次の瞬間、瞬時に移動した。

――否。移動したのではない。“位置を選び直した”のだ。だが、そこにはすでに鷹宮がいた。

「予測済み」

短く言って、刃が閃く。いつの間に抜いたのか、鷹宮の手には、鈍く光る刀が握られていた。

異形は身を捻り、再び位置を変える。だが、逃げ込んだ先にも――すでに鷹宮が立っていた。

「お疲れさま」

瞬間の閃光。切り裂かれたのは異形の肉体ではない、存在そのものだった。異形は声にならない音を発し、形を維持できず、ほどけるように消えていった。

「サポート、終了します」

背後で、天使の事務的な声が響く。鷹宮は刃を収め、コンビニ袋を拾い上げながら軽く息を吐いた。

「もっとこう……。いや、なんでもない、キミもお疲れさま。冷えてきたし、さっさと帰ろうか」


少し離れたビルの屋上で、黒いコートの男が、その一部始終を見下ろしていた。表情は目深に被った帽子に隠されている。

しかし異形が消滅した瞬間、男の姿も、最初から存在しなかったかのように薄れて闇に消えた。

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